世界遺産の登録勧告となった富岡製糸場と東京駅の赤レンガ

イコモスから「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録勧告され、いよいよ6月には世界遺産委員会で登録の可否が決まる、群馬県富岡市にある、国指定史跡、国指定重要文化財の富岡製糸場に行ってきました。

 5月の連休明けでしたが、見学者は大変多かったです。

 

画像





画像





画像





 連休中は、どれほど混んでいたことでしょうか。


入場してすぐ左に、「解説ガイドツアー」の集合場所があり、ちょうど出発するところでしたので参加しました。

 元高校の先生だったというガイドの方のお話は、分かりやすく丁寧で、クイズも入れた巧みな解説でした。




画像





 私が第一に驚いたのは、この富岡製糸場は明治3年に計画され、2年後の明治5年には主な建物が完成して工場の操業が開始されたということです。


 工場を建設すると言っても、鎖国していた江戸時代から開国したばかりで、まだ全く未知の西洋の工場建設です。

 工場の壁を作るレンガさえも、日本にはまだ製造技術がなかったということです。

 明治時代における、殖産興業による富国強兵を求めていた日本の姿がよく分かります。

 設計をはじめ、すべての計画をフランスに依頼していたことは、同じく明治5年に新橋駅の日本の鉄道開業をイギリスの指導の下に行なわれていたことと比較すると、西欧諸国が、いかに競って日本に入ろうとしていたことがよく分かります。



 これらより、3年前の明治2年、東京の築地にあった東京電信局と横浜電信局の間に わが国ではじめて 電報の取扱が行われました。

 電信通信の開通は、恐らくアメリカの指導であると推測できます。

 日本での電信機の初めは、アメリカ使節ペリーから将軍に贈られたモールス電信機だからです。

 私は、この通信の発祥である、東京の築地と横浜の起点を示す記念碑を見たことがあります

 
 これらの事実を、続けて考える時、日本の、この約150年の発展ぶりがよく分かります。


・ ここで、特に、当時官営工場として操業を開始した富岡製糸場と、赤レンガの東京駅との関係で、忘れることのできない渋沢栄一に注目してみたいと思います。

  
 私は、2012年10月に、JR東京駅丸の内駅舎の外壁の復原工事がほぼ終わったということで見学に行きました


 1914年完成の赤レンガで有名な東京駅は、大実業家、渋沢栄一が、出身地の深谷のレンガを採用したと思っていました。



 ところが、今回の富岡製糸場の見学により、その前段階があることが分かりました。

 フランス人の設計による富岡製糸場はレンガ造りでした。

- - - - - - - - - - - - <官営・富岡製糸場>より
(引用)
煉瓦および瓦:瓦は昔から使っていたから問題はなかったが、煉瓦(レンガ)は、それまで見たこともなく、煉瓦という文字もなかった時代である。現甘楽町福島の笹森稲荷前に窯を築いた。当初、煉石と呼んでいたようであるが、ブリュナは、瓦焼職人に手真似で指導し焼成した。稲荷前の粘土層の山は忽ち平地となり、遂には窪地になってしまったという。

(中略)

渋沢は後年故郷の深谷市に煉瓦工場を設立した。東京駅・帝国ホテルに代表されるレンガ製造が主要産業になったからだ。これは富岡製糸場からの技術移転の一つであろう。

- - - - - - - - - - - -(引用終り)

 
 後年、富岡製糸場の修復に深谷のレンガが使用されたそうです。

 

画像

  (写真・向かって右奥にレンガが展示されていて触ることができる。)
 




 私は、敷地内の東繭倉庫で、この富岡製糸場のレンガと、東京駅にも使われた深谷のレンガとが並んでいるのを触って比較しました。

やはり、深谷のものの方がキメも細かく、立派に思えました。

 また、深谷のレンガは、ここが建設された当初のレンガより赤色が濃いそうです。





画像





画像






 渋沢栄一が、江戸時代の盲目の国学者、塙保己一の「群書類従」の散逸を防いだという偉大な文化的業績がありますが、ここでは省略させていたたきます。