横浜開港150周年:Y150から見える点字と通信の2本のシルクロード:ヘレンケラーホン

 今年が横浜開港150周年記念ということで、横浜でいろいろな催物があります。

私も横浜に何度か行きましたが、日本の幕末から今日における横浜の果たした歴史的な役割には大きなものがあることを改めて感じました。そして、私なりに新しい発見をしました。

 それは、横浜に日本と外国を結ぶ、点字と通信が重なって並行する2本のシルクロードの入口があるということでした。



 先日、慶應義塾創立150年記念神奈川開港・開国150周年メモリアルイベント特別展「福澤諭吉と神奈川-すべては横浜にはじまる」が神奈川県立歴史博物館で開催されているので行ってきました。そこでは、文明開化の神奈川での福澤諭吉の活躍と『西洋事情』などの本で海外の様子が詳しく紹介されている内容が展示されていました。
http://www.fukuzawa2009.jp/


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(特別展の出口では、「西洋事情」の裏表紙スタンプを記念に押して持ち帰ることができます。)




 その帰りに偶然でしたが、点字とつながる通信の史跡のきっかけを見付けることができました。

 博物館の向かい側の歩道に記念の文字が刻まれたマンホールの鉄の蓋があり、1990年に電話交換100周年を記念して、NTTがこのマンホールの鉄の蓋を作ったようでした。



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 帰ってから調べたところ、これとは別に、「電信創業の地」の記念碑が現在の横浜地方検察庁のそばにあることを知り、そこへ行ってみました。



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 石碑の銘には、
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      電信創業の地

明治2年(1869)12月25日 この場所にあった横浜電信局と
東京電信局の間に わが国ではじめて 電報の取扱が
行われました。

      昭和38年12月25日
      日本電信電話公社    

  TELEGRAPH SERVICE ・・・(以下略)

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とありました。


 この当時は、まだ飛脚が走っていたそうです。それで、この電信は電線を用いたモールス通信によるものでしたが、人々はそれが理解できず、電線に手紙が走るのかと電線を見上げたり、手紙を送ろうと、電線に手紙を結びつけたりもしたそうです。


 この後、東京の中央区明石町にあるこの横浜のものと相互になる記念碑も見てきました。


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電信創業之地 の[記念碑・碑文]には、
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 電信創業之地
 東京傳信局跡
 明治二年十二月廿五日開始
 紀元二千六百年
 逓信省

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とありました。

http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/tsukiji/tsukiji_27.html(引用)
『 明治2年(1869年)9月19日、横浜裁判所内と築地運上所内「伝信機役所」を結ぶ32キロメートルの電信線架設工事がスタートし、同年12月25日に業務を開始しました。これがわが国最初の公衆通信で、以来、文明開化に大きな役割を果たしました。』


 これはモールス通信に始まる電報、電話、現代社会のインターネットで代表されるIT時代へとつながる通信の貴重な記念碑です。

 一般には、文明開化の象徴として、1872年(明治5年)に新橋―横浜間の29kmを53分で結んだ、鉄道事業の開始があまりにも有名ですが、その3年前の1869年(明治2年)12月25日に、すでに今のIT時代の先駆けである電信事業が、横浜電信局と東京電信局の間に電信線が引かれ、わが国ではじめての電報の取扱が始まっていたのです。


 この重要な電信の歴史を見て私には、点字の歴史と電信の歴史が、2本の並行するシルクロードとして重なって見えて来ました。

 その2本のシルクロードの理由は、この築地には、後に日本の点字を生んだ楽善会訓盲員(らくぜんかい くんもういん)、楽善会訓網唖院、官立東京盲唖学校へと続く学校の校舎があったからです。
 しかし、非常に残念なことですが、その記念碑は、電信の歴史を示すように、まだ建設されていません。しかし、その場所は、戦争の焼跡以前の地図から特定されています。

東京盲唖学校
http://members.jcom.home.ne.jp/wj2m-nrmt/page105.htm

 そして、1890年(明治23年)に生まれた日本の点字の前に、開港当時の横浜港と築地の校舎との間に点字前史の史料が通っていたことは間違いないと思われます。私はこれを点字のシルクロードのように感じました。


 点字は1825年にフランスで視覚障害の少年ルイ・ブライユにより発明されました。
 そして、今年がルイ・ブライユ生誕200年を記念する年です。

 一方、このブライユの点字の発明より12年後の1837年、アメリカでモールスが、モールス符号による電信を発明したのです。

 日本とモールスによる電信との係わりは、1854年にペリー提督が、2台のエンボッシング・モールス電信機を将軍に献上したことに始まります。この電信機については、既に報告してあります。


 点字は、ポツンポツンと押されて書かれた点を、視覚のない人が光のない環境で、2進数符号として指先で点に触れるか、触れないかの文字を読むコミュニケーションの方法です。

 電信も初めは、トン(短い)、ツー(長い)の2種類の符号で、光も届かぬ遠方と、筆談のようにしながら相互にコミュニケーションをとる方法でした。

 やがて、電信は無線電信、コンピュータの発明により、コンピュータ通信へと発達しました。

 一方、点字は、マスの1点から6点までの点を指先で同時に読む符号として普及しました。点字が、常に1チャンネルであるモールス通信と違うところは、1点の1チャンネルから、6点までの複数のチャンネルまでの点を1マスとして同時に読めることです。

 また、点字も、点字印刷による多数の点字資料の印刷、また、コンピュータの点字情報処理の対象として発達しました。

 今では、点字は指先だけで読むものから全身の体表で読む【体表点字】へと進化しました。これは、通信により点字の符号を送り、その送られた点字を振動に換えて、指先ではなく体表で読む点字です。

 そして、体表点字の一つの応用として「ヘレンケラーホン」が生まれました。


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 ヘレンケラーホンは、通信の最初の原理と同じに、人と人とが光も音も届かない盲ろう者との間で振動の点字によるコミュニケーションを行なうというのがその本質です。
 私には、この重要な電信の歴史の史跡と点字の歴史が重なって見えます。

 ルイ・ブライユの点字が日本に最初に紹介されたのは、岡田攝藏(おかだせつぞう)(生没年不詳)による『航西小記(こうせいしょうき)』と推定されているということです。(*)
(以下、原文です)
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 [慶應元年九月]廿日(はつか) 盲院に到(いたる)。佛郎西(フランス)に於て盲院の數(かず)を設(もうけ)たるは、十二年以来(いらい)なり。此(この)院は、幼年の盲者其(その)家貧にして自ら技藝(ぎげい)を習ふ事能(あた)はざるを、官より此館に入れ諸藝を敎ゆ。盲人に敎ゆるに一種の書籍(しょせき)を設く。文字を以(もっ)てせず、紙の面に凸(たか)く小點を印(いん)し、例へばイの字を印すれば●の印をなし、●●をロとなすが如く。斯(かく)の如き印を多く設け、究理學・地理學等の六ケ鋪(むずかし)き書迄も獨見(どっけん)する事を得(うる)に至らしむ。

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 このようにして、岡田攝藏により紹介された点字は、福澤諭吉の「西洋事情」にも紹介されて、合わせて広く日本中に知られることになりました。

 以上の後に明治において具体的に点字盤やフランス語の点字の符号が紹介されて、日本語における点字が検討されるようになりました。
 その結果、1890年(明治23年)築地から小石川(現在の文京区)指谷町(さしがやちょう)に移転したばかりの官立東京盲唖学校の石川倉次の点字の仮名点字の案が日本点字となりました。

 私はこの仮名体系を含む六点漢字体系を作り、コンピュータで、初めての日本語ワープロの原理を実証しました。(1974年)

 また、6点の点字を体表で読むようにし、点字の新たな表示方法である体表点字を考案しました。(2003年)

 体表点字の応用はいろいろと考えられますが、ヘレンケラーホンは、その応用の一つです。


・幕末から、今日まで並行してきた点字と通信の2本のシルクロードは、コンピュータ通信の携帯電話の技術を通して、1本は、体表点字の形で、もう1本は、最も初期の通信の人対人のモールス通信の形で、この2本のシルクロードが合わさり、ヘレンケラーホンとして結実したのです。

 実際に2008年2月1日に、東京都千代田区の2カ所の盲ろう者団体の建物との間で盲ろう者とヘレンケラーホンの電話をしました。


(*)
 「資料に見る点字表記法の変遷」
―慶応から平成まで―
(編集・発行 日本点字委員会)
資料2 岡田攝藏『航西小記』 1865年(慶応元)
「遣外使節日記纂輯三」(日本史籍協会叢書 98)日本史籍協会編 1930年(昭5)1月25日発行からの引用。